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首里グスク
◆ 北谷印部石 ◆

撮影:2001年9月

な・な・なんと、我が北谷町にもあったのです。(驚き)

十八世紀中葉1737年~50年にかけて琉球王府により 行われた大がかりな検地の時に、設置された原石(はるいし)印部石です。
北谷町には、その時代に作成された測量帳簿の一つ「北谷間切桑江村竿入帳(さおいれちょう)」 が残っていて、田畑の位置、大きさ、種類などが詳しく記載されています。
竿入帳に記された方角は「卯ノ上小間」「卯方少上ニ寄ル」など、暗号文にも似た難解な表記を 使っているため、ハル石の位置、存在が確認できていませんでした。

1989年、浦添市教育委員会の安里進氏によって 竿入帳に記載された方角が解読されました。
これをもとに、針図と呼ばれる測量図を復元し、北谷町の地形図に重ねあわせ位置が特定されました。
実際に特定された現場に足を運んで竿入帳に記された場所に原石が存在するのを確認したそうです。
方角は 1度単位、距離は 20センチ単位と言う極めて精度の高い測量を行っていたことが、 復元作業によってわかりました。
驚くことにその日は、二百数十年前、検地を行い原石を立てた日と同じ日だったという事です。

 

「北谷間切桑江村竿入帳」より計算、発見された大変貴重な印部石です。
保護の目的で場所の特定は避けておりますのでご了承ください。
弊社は、北谷町教育委員会より大まかな場所を教えていただき、 基準点としてふさわしい場所を探索して発見する事ができました。

江洲
◆ 江州印部石 ◆

撮影:2001年9月

江州印部土手遺跡

 

江州印部石は、1737年~50年の元文検地のときに土地測量をする際の基準点 として首里王府により設置されたうちの一つと考えられます。
 それらは、各間切(今の市町村に相当する)に 200~300ヶ所ほど設置され現在では、そのほとんどが残ってない中で 江州印部石は、その周囲を二重の根張石で囲むという完全な形で残っています。
  平成6年7月設置  具志川市教育委員会

石碑

石碑に刻まれた印部石と根張石

伊江島
◆ 伊江島の印部土手 ◆

撮影:2004年5月

2004年5月
伊江島の資料館にて印部石を見つけてしまいました。
伊江島では印部土手(シルビドテ)と言うそうですが、 ハル石(ハル=畑)とも言うそうですので、北谷の印部石と同様のものですね。
課税の目安として耕作地の位置や面積を調べる為の基準点、 色々調べていたのだと思います。
諸事情により、一部の石が現地保存出来なかった事は大変残念なことです。

印部土手(シルビドテ)

「・・・原」と刻まれた石は、シルビグァーやドゥティグァーと呼ばれている。
また、ハル石ともいう。
戦前、伊江島の各地に見られ、当館にも「こ はまさき原」の他に数基ある。
この石は蔡温が実施した元文検地(1737~50年)で使われた測量図根点である。
と記されています。

小禄1
◆ 小禄印部石 Vol.1 ◆

撮影:2004年8月

小禄の情報ページ「 超ローカルなホームページ」より 見つけました。
見つけにくいときは  こちら、那覇市小禄の児童公園のような小さな空き地に発見です。
地域の土地の守り神的な存在に少しおっかなびっくり!
本当にハル石??ハル石でした。

小禄のホームページでの紹介のように、 地域の子供たちに印部石の本来の意味を正しく伝え、 その存在を知ってもらうことは大切なことですね。 子供たちの将来が楽しみです。
部落の安全を見守りつづける印部石、
そう!そういう意味も理解できます。(^o^)丿

小禄2
◆ 小禄印部石 Vol.2 ◆

撮影:2004年8月

イヤー探すのに大変苦労しました。 すぐ近くまできていることは確かなのですが、 地域住民に聞き取り調査してもだ~れも知らない!
おそらくこの家の庭石に混じってるのでは?
探すこと約30分、ありました! 擁壁と花壇の土留めブロックの間の庭石に 混じってました。
比較的新しい日本様式の住宅なので建築時にそこへ移したのでしょう 情報の位置とだいぶずれてました。

重大な役目を終えた印部石も、大勢の仲間(庭石)に混じって 今はホッと肩の荷を下ろしたことでしょう。
お疲れ様でした。(^.^)

小禄3
◆ 小禄印部石 Vol.3 ◆

撮影:2004年8月

具志公民館に車を停めさせてもらって、いざ!目的地へ~!
あれ!あの丘の上に見えるの・・・印部石じゃない?
昔も今も測量屋さんの考えることは同じですね。 基準点を作るならそこしかないよね~ なんて話してる間に発見です。

崩壊を防ぐ根張石は見つかりませんでしたが、 おそらく2百数十年前からそこに立ってらしたんでしょう。
おつかれさまです。
こちらも部落の守護神として出世してます。(^.^)

北中城
◆ 北中城印部石 ◆

撮影:2004年8月

北中城村のホームページより紹介のあった印部石です。
屋宜原公民館の正面玄関植栽の中にありました。

立て看板でもあるとよかったのですが、 地域の人は理解しているのでしょうか?
歴史的にも地域的にも多くの石が存在していそうなので 今後の発見にも期待できそうです。

瀬良垣
◆ 瀬良垣の印部石 ◆

撮影:2005年8月

恩納村で発見!
「 なかま測量 」の名嘉真さんが、数年前に発見していたとの事。
貴重なものとは思いつつも、やはり物が物だけに身近に詳しく知る方が無く、

いつしか忘れられてしまったと

最近、出身地の部落の記念誌(史)委員に就いたことから思い出し、 何かの資料にと写真に納めていた。
たまたま訪ねていった私にその写真をみせたことから、 恩納村役場の教育長、社会教育課係長御両名を現場にご案内するまでに至りました。

印部土手石は、
近世沖縄の土地測量法を解明するための貴重な遺物であり、 その記録・保存が望まれると、文献にも紹介されています。
 その様なことから、まだ手付かずの状態でありますので、 場所のお問い合わせ等は、くれぐれもご遠慮願いますようお願いいたします。
いずれは、皆が気軽に見学できるようになればと願ってやみません。

宜野湾市伊佐
◆ 宜野湾市伊佐の印部石 ◆

撮影:2005年8月

宜野湾市伊佐にある印部土手と印部石です。
周囲の状況は、東に畑、西側に巨大な亀甲墓、南側にかけて雑木林と墓地 北側に住宅とその擁壁、  となっております。
周囲からは雑木林に保護され容易に本点を見つける事は出来ません。
ある意味大正解かも!
印部石の北西側には、本点に通ずる階段を作成しようとした型枠の残骸がありますが、 保護の観点からも必要なし!と思います

※宜野湾市より説明板写真掲載許可を頂きました。

印部石危機一髪!

印部土手は2重の根張り石で保護され、中央に印部石があります。
・・・ しかし誰が蹴飛ばしたのか、印部石が仰向けの状態になっており、少し残念です。
(T_T)台風や大雨による転倒は少し考えづらいのですが、原因は判りません。
あえて、「現状維持!」の為、手を差し伸べて起こしてあげる事はせず、 足元の枯れ枝の除去のみで取材を終えました。

 印部石、土手を保護する為、土地を確保し説明板の設置をしてくださった 宜野湾市教育委員会はさすが!!。
説明板はちょっと大きすぎでは?とも思いましたが周囲からは見づらい? ので良しとしましょう。(とはいえ心境複雑)

 印部石から見える地名や風景はこれからも変化しつづけることでしょう、
現に地域の古老でさえ「たけとう原」なんて地名聞いた事無い!と仰ってましたが、 すぐそこにある250年前の測量の痕跡を見せた時、大変驚いた様子で案内板を読み、 大興奮しておりました。
ロマンを感じ地元について再認識をした事でしょう。 絶えず変化しつづける世の中にあっても文化的史跡の痕跡を消失することなく、 現状を後世に残したいものですね。

 それにしても今でこそ雑木林の中ですが、当時は今の伊佐浜からハンビー辺りまでの海岸線を一望できる絶景だったに違いない

古我知
◆ 古我知の印部石 ◆

撮影:2006年2月

名護市内のお得意先へ測量成果の納品に行ったその足で 古我知まで足を運び取材しました。
 以前、テレビでハル石が紹介されたのを記憶していたので、 目指すは小我知公民館裏手の鳥居!
水の豊富な所、広大な田園の中を進み、ほどなくして公民館発見です!
すぐに鳥居の姿を確認し、意気揚揚と階段を上っていくと、 イメージと違う・・・??
そこは山の尾根になっており社もありません。
先にはハウス栽培の畑畑畑、 尾根に沿って散策してみたが見当たらず。
畑の先に目をやると白杭発見!
もしや案内標では?・・・ありました。(^.^)

根張り石もハッキリしています。
ハル石は一度抜かれて、再度設置されたような・・・ 歯槽膿漏の歯のように、抜けそうな状況です。

平成四年三月一日、名護市の文化財になったハル石、少し上目遣いで記念撮影、堂々とした風格になりました

フェンス際
◆ フェンス際の印部石 ◆

撮影:2006年2月

宜野湾市普天間飛行場フェンス際、「沖縄戦の図」で有名な 佐喜真美術館の隣に、壮大な亀甲墓があり、その背後にチョコンとありました。

ユリの花と月桃の葉に隠れ、石積みの石に守られた あまりにも小さなハル石なので、探すのに右往左往・・・、(^^ゞ
見かねた美術館職員の案内で無事に撮影する事が出来ました。
あいにく印部土手と根張り石の存在は確認できませんでしたが、 記号が漢字「井」とは、珍しいですね。

渡口
◆ 渡口の印部石 ◆

撮影:2009年5月

北中城村にある印部石です。

そこは、うぐゎんじゅ(拝所)にもなっているので定期的な草刈などの維持管理が行き届いているようです。
欲をいえば、ハル石本来の目的から考えると、周りの木々の枝打ちをし、視界の確保までしてもらえたら
本望なんだけどなーと、先人の声が聞えてくるかの如く思えました。

とはいえ、土手や保護石もあり、現存する数少ない貴重な遺物には違いありません。
碑文も設置されているので見学しやすい一つに上げられるのではないでしょうか。

北中城村の村指定史跡にもなっている様ですので関心のある方は、村HPをチェックしてみて下さい。

高嶺
◆ 高嶺の印部石 ◆

撮影:2009年8月

あるHPに紹介されていましたが、はる石なのか曖昧な様でしたので取材に行ってきました。

そこは、以前仕事でお世話になった大城均さん宅の超ローカルでした(^^ゞ

豊見城市高嶺の高嶺児童公園内です。

入口から奥の方へまっすぐ行くと・・

うぐぁんじゅ横に設置されています。

周りは、開発され尽されてはいますが、地形からして尾根の先端部に位置していますし土手こそ残ってはいませんが、元々この付近に設置されていたに違いないだろうと予想されます。
残念ながら、はる名が薄れて素人の私には読み取れません。うぐぁんじゅと共にいつまでも大切に
残していってほしいと思います。

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